vol.6 小林健司さん・三浦一郎さん(2)


こんにちは。
教育ファシリテーター講座・コーディネーターの鈴木です。

教育ファシリテーター講座からはや1ヶ月。
このブログのゲスト対談記事も、ついに最終回となりました。
ブログ自体は、今年度の更新はここで一旦ストップとなりますが、当会では来年度も教育ファシリテーター講座を実施予定です。

このブログを読んで関心を持たれた方、ぜひ来年度の教育ファシリテーター講座にお越しください!


さて、最終回の今回は、前回に引き続いて小林健司さん・三浦一郎さんのお二方。
いわゆる「ファシリテーター」のいない、けれど「ファシリテイティブ」な場との出会いの話から、一気に「身体論」にまで話は及びます。


今回も内容盛りだくさん。ぜひお楽しみください!


「ファシリテイティブな場」との出会い


鈴木:それでは「ファシリテーションのどういった部分に関心があるか?」について聞きたいのですが。
小林:「ファシリテーションに興味があるか?」と聞かれると、困ってしまいますね。
鈴木:なるほど、ではそういった参加型の学びの場づくり、といったものとの最初の出会いはどんなものだったんでしょうか?
小林:やっぱり、さっき話したJAEとの出会いは大きかったですね。最初に携わったのが「キッズマート」という事業です。商店街で売っている商品を、子どもたちが原価で仕入れて工夫して売る、といったようなものでした。当時は学校教育での学びしか知らなかったから、子どもたち一人ひとりが考えてお店をつくる、ということが新鮮で。
鈴木:なるほど。
小林:例えば、お店がうまくいっていないときに「もっとこうしたらいいのに」と僕が思っていたとしても、子ども達を集めて「今、外から見たらお店どう見えると思う?」「どうしたらもっとよくなるかな?」とか聞いてみる。そこで子どもたちが「こうしたらいいと思う」という意見が出てきたらそれをやってみる。それが、いわゆる「ファシリテーション」と呼ばれるものとの出会いだったかもしれませんね。



(ワーク中の小林さん)


三浦:健ちゃんが大学時代にそういった場に関心を持った、ということは、それにつながるきっかけがそれ以前にあったということなのかな?
小林:あるとすれば、高校のときの文化祭ですね。文化祭は自分たちで色々決めてやるという最初の経験だったように思います。
三浦:どういうことをやってたの?
小林:学年によって違うんですが、2メートル四方のオブジェみたいなのをつくったり、ステージ発表で30分くらいの演劇をしたり。そこで、プロデューサー的な視点が必要だってことに気づいたりしたんです。「自分たちのやりたいことだけやってちゃだめなんだ」みたいな。
川中;健ちゃんの学校って、お客さんをしっかり集める学校だったの?
小林:いや、そういうわけではなかったんですが、演劇でも何でも評価されるんですよ。そこで1位になれなかった時とかは、「審査員わかってねぇなぁ」みたいな話をみんなでしていて(笑)。でも1位がとれないということは、何か原因があるわけです。すると、「審査員に受けるためには?」みたいなことをちゃんと考えて、ちょっと引いた視点で、改善していくような視点が必要だね、みたいな話をしていて。そういう体験がつながるのかなと思います。

三浦:僕も高校時代は、学園祭で漫才・コントとかやってたよ。吉本興業の「2丁目劇場」をパロって「3丁目劇場」っていうグループ作って。
小林:へーっ!(笑)
三浦:すごい数のお客さんが来てね。僕らは寮生活だったから、3時間の自習時間があったんだけど、その時間内に学園祭に向けての練習時間を勝ちとる交渉とかをしてました。川中さんも、高校時代に学園祭は力入れてたんでしょ?
川中:学園祭?大事大事!
小林:ははは!
川中:こんな内容、記事にしていいのかな…?
三浦:いいんですよ!きっかけの話なんですから。(笑)
川中:僕の高校は、生徒同士の発表大会というよりも、他の学校の子に来てもらってなんぼという感じだったんで、お客さんを集めることがとっても重要だったんです(笑)。当時、友だちに誘われて文化祭執行委員会の本部役員になったんですけど、「どうやってお客さんを集めるのか?どうやって長くいて、色々見てもらうか?」ということを考え続けたんですね。どんなチラシをつくって、どこにまくのか?とか、どこにどの部活の模擬店をおくのか?とかね。たとえば、女子高校生に人気のあるテニス部などの模擬店にはいろんな高校の女の子がくるわけ。そういった人気模擬店で、それまで校舎の外の玄関前に出していたものは、あえて学校の中庭の奥に置いたりしたんです。すると、みんな校舎内を歩き回るから、動線が生まれて、いろいろ見てもらえるんだよね。
三浦:なるほど!(笑)
小林:そこまで考えるのってすごいなぁ。
川中:あとは、保護者さんがよく行くPTAの喫茶店を、水場から少し遠くなるんだけど、あえて奥のほうに移動させたりもしましたね。そしたら「水場から遠いのは困る…」とかPTAから要望が来て、ひともんちゃくあったりしましたけど(笑)。
鈴木:すごいですねぇ・・・。
川中:すると来場者数が上がったり、各店舗の売上の金額が変わったりしたんですね。自分たちが動くことで、ものごとが動いたり、レスポンスが返ってきたりすることを実感しましたね。ファシリテーションとは関係ないけど、そういうプロデュースに関わったことが、「運動」から「活動」に変わっていくきっかけになったんですよ。それまでは、問題だと思うことがあったら、学校でも行政でも、提言などをまとめて抗議し続けていたんですね。でも、文化祭のように、思いを「形」にしていく活動の方がものごとは動くんです。「運動」にも意味はありますし、大事なことも多いのですが、思いを運動にしてしまうと実は伝わりにくくて、「企画」という形にしたほうが伝わりやすくなるんですね。そういう思いをこめて「共育企画」としたんですね。
小林:これもたぶん広義の意味でファシリテーションですよね。
三浦:しかし、何かしらのきっかけが、みんな文化祭にあるっていうのはおもしろいですね。
川中:文化祭、というか「課外活動」なんだよね。
一同:たしかに!
川中:文化祭だったり部活だったり「管理された空間」ではなくて「管理されていない空間」、それは衝突したり模索したり、協同したりするような空間で起こるコミュニケーションのほうが、実は色んな学びが豊かになっているんじゃないかな。たとえ、そこにファシリテーターという人がいなくても、お互いを追求しようとすると、自ずとファシリテイティブなものが生まれていくと思うんだよね。
小林:そう考えると、ファシリテイティブなものとの出会いは、高校の文化祭でしたね。誰かが劇の脚本の原案を持ってきてそれをたたいたりとか、現実的には劇の上では削らないといけない部分が出てきてそれを調整したりとか、変化していく中で企画ができていく経験は大きかったですね。

三浦:今回の教育ファシリテーター講座でも「実習」の時間を組み込んでいますよね。今の話を聞いていると、それぞれの高校時代に「壮大な実習」をやっていたと考えることもできる。研修の中でやるよりも規模が大きくて、利害関係も絡んでいる、すごく難しい実習をやっているわけですよね。
川中:日常生活の中の活動が、ある種のラボラトリーの中で行われている、と言えますね。だから、ラボラトリーメソッドのようなふりかえりを日常の活動の中でするかしないかで、そこでの学びへの気づきは大きく左右されてしまう。
三浦:でもね、そう考えると文化祭の時にふりかえり、してないですよね?(笑)
小林:それは打ち上げとかでやってるんじゃないですか?
川中:僕は、うまくいかないときの議論の時に、自ずとふりかえりが起こっていると思うけどね。「なんでうまくいかないのか?」というのを考え続けるから。
小林:そういう意味では僕らがクラスで1位を取れなかった時は、打ち上げがそのままふりかえりになっていたと思いますね。「審査員、わかってねーよ!」という話から、「1位を取りにいくにはどういうことが必要か」って話にもなってました。
川中:それを「ふりかえり」と呼ばなくても、本気になってやる場面をつくれば、自ずとふりかえりが行われると思いますけどね。
鈴木:確かにそうですね。
三浦:今回の研修だったら、プログラムの工夫次第では、ふりかえりの時間を設ける必要はないかもしれないですね。
川中:確かにそうですね。そうなったら、それは面白いですね(笑)。


仮説をもった「きく」/相手に寄り添った「きく」


川中:話はがらっと変わるけれど、健ちゃんが以前、橋本久仁彦さん(カウンセラー/プレイバックシアタープロデュース)のミニカウンセリング講座のワークショップに参加した後、「いかに相手に寄り添って聴くか?」を大切にしたいという話をしていたよね。でも、それから半年くらいしてから「そういう聴きかたもいいけど、やっぱり自分は今、仮説を持って聴くということに力点を置いている」みたいなことを話していたよね。自分は参加体験はないんですが、友人から聞いていると、橋本さんのワークショップでは衝撃的な経験をすることが多く、そこで学ぶ他者との関わり方のスタイルで大きな影響を受けるようですが、健ちゃんはその価値を分かりながらも、やっぱり自分は「仮説を持って聴く質問が大事だ」という立場に立っている。それはどうしてなのかな?
小林:確信はありませんが、「仮説を持って聴く」聴きかたも、「相手に寄り添って聴く」聴き方も掘り下げていけばつながっているような気がしているんです。どうつながるのか、までは分からないですけど、このまま掘っていったらつながるような気がしているんです。
川中:ほぉ、なるほど。
小林:事実ベース、つまり自分の外側にあることについて話すときには、そのことについて、お互いが手応えのある状態にまで形づくるプロセスが必要だと思うんです。お互いが「一般的に考えてこうだよね」と言える状態に持っていかないと、手応えを持って話せない。一方、相手の内面にしかないものを扱う場合は、相手に寄り添って、確かめていくしかない。内面にあるものを扱うのか、外面にあるものを扱うのかの違いであって、手応えを確かめていく、という点では同じなんですよね。

三浦:なるほど。でも、自分の外側にあるものについて話す時も、結局は自分の内面でそれを感じているんじゃないの?
小林:話そうとしている対象が、「お互いの真ん中にある」のか、それとも「相手の中にしか存在しないもの」なのかという違いですね。例えば、「人生における大きなハードルがある」という言葉があるとしたら、それを言った本人にしかそのハードルのイメージはわからない。僕らは、一般的な陸上競技用のハードルを思い浮かべますけど、本人にとってはそんな形だとは限らなくて、断崖絶壁のイメージかもしれない。その人自身のイメージの中では、色んな情報が含まれている言葉なんだけど、外の人からしたら相手の現在のエネルギーに寄り添うことしかできないと思うんです。それをすることが唯一、相手の存在に近づけることだと思うんですね。だから、「ファシリテーションって何なんだ」っていう概念に接近するときには、それ自体は相手と自分の真ん中にあるので。色々と手応えを確かめながら仮説をもって聴いていくことになると思うんですよね。
三浦:さっきの話の中の、「相手の中だけにあるもの」と「相手と自分との間にあるもの」は、僕にとっては別物とは感じなかったけれど。
小林:「手応えを持って感じる」と言ったとき、その手の先には相手の内面があって、結局は自分の外面を通じて相手の内面に入っていく。そういう意味で、つながっているという感覚ですね。


言葉を越えた「身体感覚」


小林:今、ダンスとプレイバック・シアターっていう講座(補足:ミニカウンセリング講座では人の内面や存在に言語で近づいていくのですが、こちらの講座は、身体感覚から自分や他者の存在に近づいていくワークショップ、だと理解しています、、。関係者の方々、間違っていたらすいません、、。(小林))に行っているんです。
三浦:へーっ。
小林:さっき言っていたミニカウンセリング講座では言語から入っていくんです。でも、他の人と同じポーズをとってみることでわかる、その人の身体感覚みたいなものって、あると思うんですよね。
三浦:おもしろいね。(笑)
小林:例えば、多動症の子を持つお母さんとかが、それまで自分の子どもが全く理解できない世界に住んでいるかのような感覚だったのが、同じようにその子の動きを真似してみることで、いらいらしなくなったりすることもあるそうなんです。

三浦:僕もすごく影響を受けた、竹内敏晴さんという演出家の人がよく引用している 話があるんです。『ユング自伝』の中で、アフリカ旅行に同行した黒人達の「マネする能力」が凄いっていうんです。正確に相手のマネをすることで、相手の気持ちを理解してしまうという。竹内さんはそれを「見て取る(見取る)」「共振するからだ」「一緒に変化してゆけるからだ」と表現されています。僕は個人的な造語で「体感情報」って言っているんだけど、そういった言語的な情報だけではわからない、伝えてもわからない領域はあるな、と思う。



(ワーク中の三浦さん)


小林:それは去年、シチズンシップ共育企画が主催している「生と死の共育ワークショップ」でゲストの秋田光彦さん(大蓮寺・應典院住職)が、ワークショップの最後にみなさんに問いかけられたことにもつながりますよね。
川中:そうだね。去年の「生と死の共育ワークショップ」では、「自分のお葬式はどうあげられたいか?」をテーマに2日間ずっと「語り」という形で死というものに向き合っていたんです。でも、会場として使わせていただいている應典院というお寺では、演劇や詩の朗読などのパフォーマンスという形で、直接/間接にそうした問いに接近している人が大勢おられます。言葉で接近してみることもアプローチのひとつだけれど、体を動かして表現してみること、パフォーマンスをしてみることによって接近する時間も必要ではないか、という問いかけを秋田さんからいただいたわけです。なので、今年の「生と死の共育ワークショップ」は「<老い>を表現する。(http://homepage2.nifty.com/citizenship/de0902.htm)」というテーマにして、演劇的手法も混ぜ合わせることにしました。
小林:お葬式の所作一つひとつをとっても、そういうもので「死」というものを表現したりすることもできる。だから、言葉だけで語りつくせるものではないというか。僕がダンスをしに行ってすごく感じるのは、古代の民族とかがいるような時代とか、アフリカとかの部族とかの儀式とかはこういう感覚だったんだろうなぁと。相手の動きや形をトレースしていったりすることで表現されるものって、ステージで表現するとすごくきれいで。その人らしい動きであればあるほど、きれいなんです。変にきれいに見せようとする方が違和感がある。その人らしい動きが出ているとき、美しいと思ってじーんときちゃったんですね。

鈴木:なるほど。僕自身にはそういった経験はないんですが、一郎さんにはあるんでしょうか?
三浦:僕が以前参加した、竹内さんのワークショップのプログラムの中に「出会いのレッスン」というのがあって、それが近いかな。3泊4日の合宿レッスンの最後のプログラムだったと思います。3日間でゆったりとからだをほぐして、最後に人と人が一対一で向き合い感じるままに動くっていう時間なんだけど、たまたま僕は対人緊張の強い人がペアになった、レッスンが始って数分後時、その人は体が震えていたんですね。すると、僕は緊張はしてないつもりだったけどその人の姿を見ていると僕の体もなぜか震えてきて。結局、その人が近づいて来てくれて手を握られ時にへなへなと脱力して、その場に座り込んでしまったりしたことがあったんです。そう考えると、「自分がこうしたい」とか以前に、意思とは違うところに何かあるんだろうなと。
小林:そんなこともあるんですねぇ。
三浦:岩美自然学校での不登校児対象のキャンプのとき、ある参加者の高校生の女の子が宿舎の2階で泣いていたことがあって。すると、1階にいた地元漁師町育ちの高校生ボランティア男の子が、上で泣いている子のことを感じて泣いているわけ。「どうして泣くの?」って聞いたら、「なんで泣いてるのかはわからんけど、なんか共鳴する。」って言うんですね。僕だったら、泣く理由を聞いて、理解してから自分も泣くっていうことはあっても、どうして泣いているかわからない子に共鳴して泣きはしないなと。目の前にいる人ならともかくとしても、2階にいて姿も見えていない、聞こえてくるのは泣き声だけ。けれどあの人が泣いてるから私も泣いてしまう、という。そんなからだのありように関心がありますね、というかそのようなからだを取り戻したい。


今後、つくっていきたい場


川中:話は色々と広がっていくばかりですが、そろそろ最後の問いに。それぞれ、今後どんな場をつくっていきたいですか?
三浦:僕は教師を目指しているので、学校教育の中で、その人自身の教育観を問うていけるような場をつくりたいと思っています。生徒同士でも教員同士でも、その人の人格そのものに触れていくこと、というのかな。教師自身の人間観をお互いに問うていくような、そんな場をつくれたら、と思いますね。
鈴木:健司さんはどうでしょう?
小林:今、一番やりたいのは、子ども向けのキャンプでダンスをやってみたいですね。ある人がポーズを取って、それを別の人がトレースしてみて、それを続けていく。その人の存在から出る美しさというか、その人の存在すべてを肯定的に捉えている空間ができると思うんです。僕はそれをステージ上で見てすごく美しいと思ったので、キャンプファイヤーの前とかで、そういうのをやってみたら、めちゃめちゃきれいに見えると思うんです。
鈴木:なるほど、すごく具体的ですね。
小林:それって、子どもにとって原体験になると思うんです。こんなに自分自身の存在を認めてもらえることってあるんだ、という経験をちゃんと刻んでいくというか。今の世の中ってそういう機会は少ない気がしますしね。
鈴木:そう言えば、前回の川中さんとの対談で挙がった美作大学の「ボランティア論」のレポートを読んでいたんです。そこに「自分はこれでいいんだ」という感覚を得られる場ってなかったという経験をつづっている子もいたんです。ダンスとは違いますが、そういう経験を得る場というのは、少ないのかもしれませんね。
小林:そうだね。
鈴木:お二人の話を聞いていて思ったんですが、今回は「ファシリテーター」という言葉がほとんど出てきませんでした。しかし、ファシリテーターとして場に立つ・立たないに関わらず、自分の感覚とか大事にしたいことを持って人と関わってらっしゃるな、と強く感じました。生き様が出る、という感じでしょうか。
小林:その場に居る人が大切にされる、という意味では、ファシリテーションという言葉につながるのかも知れませんね。
鈴木:そう考えると、前回、川中さんが言っていたように、「機能としてファシリテーションというものが表出してきている」というのは、そこですよね。そういったことを大事にしていった結果、ある特定の場面や関係性の中で、気づいたらファシリテーターという役割を果たしている、というかね。
三浦:「ファシリテーションという機能」という形で敢えて切り取って考えることで色んな場面に適用したりしやすくはなりますね。
鈴木:確かにそうですね。ただ、それが変な切り取られ方をすると、見えなくなるというのはありますが。
小林:単に「意見をまとめるために」みたいに切り取られるのとは、やっぱり違いますよね。
鈴木:そうですね。今のような話につながる、中級・上級になるといいですね。
お三方、今日はどうもありがとうございました!

※竹内敏晴さんは去る2009年9月7日ご逝去なされました。ご冥福を心からお祈りします。 シチズンシップ共育企画一同

(おわり)